重化学工業の時代の鉄鋼業に該当する情報・知識産業の時代の基礎産業は、金融業だといえるかもしれない。
しかし、現在のところ、情報・知識産業の時代の戦略産業が見えてこない。
つまり、重化学工業時代の自動車産業や家庭電器産業に代替する戦略産業が登場していないということができる。
そのため、一九世紀後半に重化学工業の戦略産業が登場しないため、鉄鋼業が過剰設備を抱えて不況に苦しんでいたように、重化学工業も不良債権を抱えて苦悩しているとさえいうことができ重化学工業の時代が、自動車や家庭電器などのような、人間の手足の延長が独立したメカニズムに成ったものの登場した時代だとすれば、情報・知識産業の時代は、人間の神経や頭脳の延長が独立したメカニズムに成ったものの登場する時代ということができよう。
「歴史の峠」における不況も、人間の神経や頭脳の延長が独立したメカニズムになったものを、人間のライフ・スタイルに取り込めた時に脱出することができるといってもいいすぎではない。
人間は自然という「対象」に働きかけ、人間にとって有用物を作り出す。
農業の時代には、さらには軽工業の時代にも、自然という、人間が働きかける「対象」の豊かさが、有用物を作り出すことを左右した。
軽工業の時代における工場が、原料の入手が容易な場所に立地され、都市が原料立地都市として形成されたのも、そのためである。
ところが、重化学工業の時代になると、機械設備、つまり人間が自然に働きかげる「手段」が、生産を左右するようになる。
人間という「主体」の労働は、機械のリズムに合わせて配置されてしまっていたのである。
意味がない。
しかも、ルーティンの判断は機械が代替する。
そうなると、人間が考える動物としもっとも、日本の企業も状況が変わり、状況に対応する改革の必要性に気が付き始めた。
しかし、状況認識を誤り、改革に後れをとったという焦燥感が、改革を絶望への迷路に迷い込ませてしまったのである。
重要なことは、自己を新しい状況に適応させるように、改革することである。
ところが、現実の企業改革は二重の意味で誤りを犯している。
第一は、改革に遅れたという焦燥感から、自己を新しい状況に適応させるのではなく、自己を捨て去ることが改革だと思っていることである。
つまり、グローバル・スタンダードを無批判に受け入れることが改革だと錯覚し始めたことである。
生産を左右するようになる。
人間という「主体」の労働は、機械のリズムに合わせて配置されてしまっていたのである。
しかし、情報・知識産業の時代になると、人間という「主体」そのものが生産を左右する。
レクトロニクス、バイオテクノロジーなどと叫んでも、それを担う人間の能力が存在しなければ意味がない。
しかも、ルーティンの判断は機械が代替する。
そうなると、人間が考える動物として、人間の「人間的使用」が始まる時代に足を踏み入れていくということができる。
しかし、自己は他者にはなれない。
黒髪を金色に染めたところで、生来の金髪の美しさには遠く及ばない。
しかも、髪の色は眼の色ともリンクする。
金髪にしたいのなら、眼の色もカラー・コンタクトで変色させなければ美しくはない。
なぜなら、機能的なものこそが美しいからである。
黒髪、黒い瞳には機能的な理由がある。
強い日差しへの適応からいえば、金髪や青い瞳よりも機能的なのだ。
機能性や全体性を無視して、髪の色のみを変えてみても美しくはない。
重要なことは状況の変化に、自己の個性をより発展させながら適応していくことなのである。
他者が状況に巧みに適応しているとしても、他者に学びながらも、他者とは相違した方法で適応しなければならない。
他者と自己は個性がまったく相違していることを考えれば、それは当然のことである。
確かに、「日本的経営」が讃美されたことに浮かれすぎたかもしれない。
酔いが醒めてみると、成功の宴に酔い痴れ失態を演じてしまったと、自己嫌悪に陥ってしまうのも理解できないわけではない。
しかし、いくら自己嫌悪に陥ったとしても、自己は他者にはなれない。
どのように化粧を施し、上辺を取り繕ってみても他者にはなれない。
他者と同じようになろうとして、他者と競争しても他者に敗けるに決まっている。
第二に、アメリカのようになることにばかり心を砕いたために、状況に適応するという本来の目的を見失ってしまった。
いわば上辺だけの化粧で変身することにのみ専念し、内面から自己の変革することを怠ったということである。
その結果として、状況の変化に対応して産業構造を変革することをすべきなのに、規制緩和と民営化をし、競争原理を導入する「構造改革」さえ実行すれば、万事解決すると考えてしまった(情報技術)と騒いでも所詮、重化学工業化の延長線上を取り込むことにのみ熱中してしまうという誤りを犯したのである。
重化学工業の時代の秩序とは、大量生産・大量消費にある。
重化学工業の時代には、自然から取り出した原材料を大量に投入し、生産物を大量に産出することが目指される。
もちろん、廃棄物も大量に産出することを忘れてはならない。
この大量投入による大量産出を可能にした条件は、人間が自然に働きかける「手段」が、技術革新によって高度化したことにある。
人間の労働は、熟練が奪われ単純化して、「手段」にすぎない機械に従属してしまう。
人間の作業は動作研究と時間研究によって、単純な労働に分解されていく。
この分解された単純労働が、自動化された機械設備に張り付けられていく。
このように人間の主体的労働が、「手段」としての機械設備に従属化してしまうと、大量投入による大量産出の効率性を上げるには、「手段」である機械を高度化して、機械に張り付ける「主体」としての労働を節約することが主張される。
ところが、「手段」である機械を高度化して、労働を節約することは、重化学工業の発展にとって「諸刃の剣」となる。
というのも、「手段」としての機械の高度化により、生産性を高めることによって、単純化した労働に高賃金を支払うことが、重化学工業時代の大量産出を支える条件ともなっていたからである。
つまり、高賃金によって、大量産出による大量の生産物を労働者が購入しなければ、大量産出は継続不可能となってしまうのである。
ところが、一九八0年代以降、日本では情報技術がより一層、飛躍的に労働を単純化し、「手段」としての機械に置き換えていく方向で活用し始めた。
中間管理者の管理労働をも、単純労働と機械装置に置換する現象が進められていく。
そのため、企業組織から、労働の主体である人間が急速に駆逐されていく。
しかも、企業組織から、より多くの人間を追放した経営者こそ優秀な経営者だと格付けされていく。
そして、企業に残った人間の労働は、ますます単純な労働となっていく。
そうした単純な労働は、正規従業員ではなく非正規従業員によって担われていくようになる。
企業から人間が駆逐されていくと、企業が血のにじむ思いで人間を駆逐している時に、政府はなぜ人間を雇用しているのだ。
政府も企業を手本にして、リストラによって人間を駆逐すべきだと絶叫されるようになる。
民間企業も政府も、人間の首を切るゲームに熱中するようになる。
こうして人間の社会から人間が追放されていくことになる。
クレジットカードが集結しました。まったく新しいクレジットカードです。
クレジットカードを捉えます。基本機能も充実したクレジットカードです。
ターゲットに応じたクレジットカードの道は決して楽ではありません。クレジットカードにおける戦略的パートナーです。


